『遠い山なみの光 新版』
カズオ・イシグロ著 ; 小野寺健訳(早川書房, 2025.6)

長崎の街は三方を山に囲まれ、すり鉢状の底に湖面のような海を抱いている。
海をぐるりと囲んだ山並みから、日は昇り、沈む。日が沈む方の山並みに「稲佐山(いなさやま)」がある。
山と言っても、ちょうど東京タワーと同じくらいの高さなのだから、外国では「丘(hill)」と呼ばれるのであろう。稲佐山は昔から長崎のシンボル的な存在で、今では頂上にテレビ塔が立ち、夜景をみる観光地となり、毎日多くの観光客で賑わっている。
今日紹介する本は、長崎市生まれのノーベル賞作家・カズオ・イシグロのデビュー作であるのだが、タイトルの『遠い山なみの光(A Pale View of Hills)」。この「山なみ」とは、おそらく稲佐山を含む長崎の低山の稜線のことを言っているのではないかと僕は想像している。
本書は戦後の長崎の街と人々を、イギリスから回想するという構成である。物語であるので、記録に残らない市井の人々が登場し、当時の稲佐山に関する印象的なシーンも描かれている。もちろん、原爆に関しての記述もある。
この物語の作者、カズオ・イシグロは、1954年長崎市新中川町で生まれた。5歳まで長崎に住み、その後海洋学者である父について渡英した。イギリスの大学院で小説を学び、1982年「A Pale View of Hills」で長編デビューし、王立文学協会賞を受賞し、世界的に注目される存在となった。その後も、長崎を描いた小説をいくつか書いている。
2017年10月ノーベル文学賞を受賞し、長崎でも大騒ぎとなったのだが、「えっ、誰?」という感じの反応が多かったのは事実である。おそらく純文学であり英国在住の作家であったので、翻訳本も少なかったからであろう。正直、僕も知らなかった。ノーベル賞の受賞会見では、
「親は日本人で、家では日本語が話されていた。親の目を通して世界を見ていた」
「私の一部は、いつも日本人と思っていた」
と彼は語っていたが、まさにデビュー作は、カズオ・イシグロの親の世代が戦後の混乱を生き抜くたくましさや葛藤を描いている。さらに、戦前戦後の世代間の溝や、日本と西欧の文化の摩擦などを巧みな手法で物語っている。
毎年ノーベル文学賞作家の作品は、僕はとりあえず読んでみるのだが、途中で挫折することが多い(笑)。しかし、本書は長崎の街の固有名詞が沢山出てくるせいもあり、また、平易な文章で書かれていることもあり、簡単に読める。特に会話が面白い。純文学としては展開もわかりやすい。だが、解釈は難しい(まあ、純文学とはそういうものだろう)。
本書で描かれている「稲佐山」は、高射砲が配備された戦時の要所ではなく、表面的にはケーブルカーで登る平和な観光地として捉えられているのだが、実は深い意味のある場所となっている。僕のつたない解釈では、こうだ。
遠い異国から振り返る故郷は、様々な苦難や苦悩や後悔があった場所なのだが、それはすべて過去のものである。そして、そこには誰にも語られない、語ることができない秘密の過去がある。そのシンボル的な象徴が「稲佐山」である。しかしながら、人は過去を振り返る時、すべてを闇として位置付けることができない。なぜならば、暗い過去もわずかに灯る「山なみの光」として、希望として、胸にしまいこんで生きてかなければ、つらくて生きてられない。カズオ・イシグロの作品には、過去に秘密を抱えてなんとか生きてゆこうとする人々が登場する。彼の作品を何冊か読んだが、このデビュー作のコンセプトは、その後の作品にも色濃く反映されていると、僕は思う。
長崎には有名な作家(村上龍、吉田修一、佐藤正午…)も多いが、芸能で活躍するスターも多い。川口春奈さん、長濱ねるさん、仲里依紗さんなどの女性俳優の名前があがるが、我々世代は、前川清さん、さだまさしさん、そして、福山雅治さんである。
実は、福山さんは、稲佐山のふもとの街で育った。
NHKのファミリーヒストリー(2021年4月26日放映)によると、福山さんのお父さんは被爆したそうだが、稲佐山の稜線の地区だったので偶然にも、稜線の影となり放射能を直接浴びることが避けられ一命を取り留めた…という内容がナレーションで流れていたと記憶している。
そんな奇跡的に助かった父を持つ福山さんは、稲佐山に特別な思いがあるのかもしれない。デビュー25周年記念の凱旋ライブ「福山☆夏の大創業祭 2015 稲佐山」では、稲佐山を題材にした「約束の丘」という曲を歌った。中学時代は稲佐山付近に実家があった僕も、そのライブに参加し感激したことを覚えている。
その福山さんは、戦後80年の今年、原爆が投下された8月9日に、被爆樹木をテーマにした楽曲「クスノキ」をNHKの生特番で、市民と共に歌うというプロジェクトを行った。全国から参加者を募集しており、僕も応募した。
被ばく80年の今年、僕らは。
図書館は、本を貸す仕事だけではない。「その地域の歴史的な資料を保存し、後世へ繋ぐ」という任務を担っている。原爆にて、医学部生や医師や看護師を含む、約900名の学生教職員が犠牲となった、図書館職員6名も含まれている。そして、今、奇跡的に助かった人々の記録、救援活動をした医師の血のついた白衣、医学生が使っていた焼け残った紙製人体解剖模型(キュンストレーキ)、ガラスの刺さった本などが保存されており、それをしっかりと後世に残す活動を続けている。今年は戦後80年ということで、この活動をクラウドファンディングとして企画して、沢山の協力者を得ました。この場を借りて、心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。
カズオ・イシグロが文学として長崎の記憶を記録し、福山雅治さんは歌を通して人々の記憶をつないでいる。ささやかではあるが、これからも、僕らも僕らにできることをやろうと思っている。さて、残念ながら、福山さんの8月9日の「クスノキ」プロジェクトの抽選には外れた。一緒に歌えなくて残念だったが、11時2分には、稲佐山に向かって黙とうを捧げた。世界が平和でありますように、と。
【追記】2025年9月5日公開の映画「遠い山なみの光」は、とても反響があったようですね。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊が出演して、とても印象的でありましたよ、ホ~ホッホ。
今年も沢山本を読みました。来年も良い本を紹介しますよ~。ぜひ図書館に遊びにきてね~、ホ~ホッホ。それでは、良いお年を!ホ~ホッホ!
(本稿は2025年8月に医療従事者専用サイト「m3」に掲載された記事を再編集して掲載しております)

▼所蔵情報
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【黒にゃんこ司書のつぶやき】
こんにゃちは、黒にゃんこ司書です。館長、2017年にノーベル賞受賞するまでカズオ・イシグロ知らなかったんですか! その頃ならもう日本でも十分メジャーな存在でしたよ。2016年に『わたしを離さないで』が綾瀬はるか主演でドラマ化してるくらいですし・・・。映像化も多いイシグロ作品、みなさんもぜひ冬休みに触れてみてください。それじゃ、また来年にゃ~♪